★☆★☆ ⇒《研究室の小窓》
1.「卒論指導の臨床教育学」―――――――――――――――――――毛利 猛

 近年、大学における教育活動を見直そうという動きが強まり、高等教育研究もか
なりの活況を呈していますが、しかし、卒論指導のあり方に関しては、まだあまり
研究がなされていません。教育がローカルな営みであり、それぞれの大学の学生の
質や専門の違いによって、その指導のあり方が大きく異なること、また、学生にと
っての卒論作成の意義は大きいにもかかわらず、その指導に関しては、これをあま
り重視してこなかったということがあると思います。しかし、私たち大学教員と卒
論生との指導関係、および指導過程において繰り返し起こり、その見かけの個別性、
特殊性にもかかわらず学問的に扱えることは決して少なくないし、「学部教育の向
上」を図るためにも、卒論指導のあり方を見直すことは、極めて大事な課題である
はずです。そのように考えて、最近、ある高等教育に関する研究集会で、私がこれ
まで卒論指導について考えてきたことを発表しました。
(もうりたけし、教育学部助教授、教育学)


   香川大学メールマガジン  第17号   2004年6月24日

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2.「卒論のテーマを決める」─――――――――――――――――――毛利 猛

 卒業論文の作成は、テーマを設定することから始まります。しかし、このスター
トの段階で躓いてしまう学生は非常に多い。なかなかテーマを絞りこめないのです。
無理もないかもしれません。自分の関心を深めるための読書をあまりしてこなかっ
たのですから。そこで、テーマを設定する段階での、私たちの指導が重要になって
きます。
 まずは、学生に「何に関心があるのか」を尋ね、彼ないし彼女の話をよく聴いて
あげなければなりません。関心の所在を言葉にすることで、何をやりたいのかが本
人にもはっきりするからです。そして、その関心を深めるために読むべき文献を紹
介します。ただし、そうした文献を読み進めながら、自分の問題意識を明確にする
ことができるゼミ生ばかりではありません。なかには、文献を読むたびに、「何か
違うような気がする」といって、関心がころころ変わる学生もいます。「あれでも
ない、これでもない」と迷った挙句、私が最初に「読んでみたら」と勧めていた人
物(の著作)に戻ることもあります。
 卒論のテーマ設定に当たっては、教員が「押しつけた」わけではないけれども、
学生がまったく「自由に」決めたわけでもない。学生の関心を尊重しつつも、やは
り、教員が「見通し」をもって「導いて」おり、その導きによって、学生が自分の
問題意識に目覚めるようでありたいと考えています。
(もうりたけし、教育学部教授、教育学)


   香川大学メールマガジン  第18号   2004年7月8日

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3.「主体化と客体化」─―――――――――――――――――――――毛利 猛

 教育学のような人間に関する学問には、できるだけ自分の問題に引き寄せて読ん
だり書いたりしようとする主体化の方向と、逆に、できるだけ自分を抑制した態度
で読んだり書いたりしようとする客体化の方向があり、私たちの学問研究はこの二
方向の往復運動によって深まっていきます。ところが、学生たちには、このような
行き来を繰り返しながら、両者のあいだに均衡をとるのが難しいようです。彼らは
たいていどちらかに著しく傾斜しており、そのことは、彼らの卒業論文の書き方に
もよく現れています。
 すなわち、一方で、自分なりの主体的な問題関心は強いものの、それを客観的な
統一にもたらす努力をしない学生がおり、他方で、借り物の体系を要領よくまとめ
るだけで、それを自分の生活現実と結びつける努力をしない学生がいます。私の卒
論指導においては、前者のタイプには「独りよがりな文章を書くな」と言い、後者
のタイプには「もっと自分らしさをだせ」と言うという具合に、学生の傾向と相反
する方向を強調していくことがどうしても多くなります。
 これは学生の側からすれば、「自分にない傾向」をつねに求められるわけで、か
なり苦しいことです。実は、多くの学生は、テーマを決めるために文献を読んでい
る段階と執筆の段階とで、彼らの「傾向」をがらりと変えます。すなわち、書き始
めるまでは、自分の「思い」(問題関心)に忠実であるかに見えた学生が、いざ書
き始めると、自分の「思い」をうまく表現できず、それでも書かなければならない
となると、今度は一転して、自分の「思い」よりも「文献」に忠実になるのです。
この学生の「変節」に応じて、私の指導の「方向」も変わらざるをえません。テー
マ設定の段階では、「もっと文献を読め」「それは学問的な問題意識ではない」と
言って、どちらかというと客体化の方向を強調していたのが、執筆の段階では、「
これが本当に君の書きたいことなのか」と主体化を要求しているのです。この指導
の方向転換は、「学生が変わった」ことへの私側の「対応」なのですが、学生のほ
うでは、「先生が変わった」と受け止めている場合があります。
 そもそも書くこと自体が大変苦しいことです。苦しみの原因は明らかに、うまく
書けないということ自体にあるわけですが、学生の意識の上では、私が学生を苦し
めていることになります。とにかく早く書けと急かし、書いたら書いたで「書き直
し」を要求する私が苦しみの原因にすり替えられ、ときには、私と卒論生との関係
が、一時的に「険悪に」なることもあります。しかしやはり、このお互いにとって
つらい時期を乗り越えて何とか書き上げたときのほうが、成果は大きいように思い
ます。
(もうりたけし、教育学部教授、教育学)


   香川大学メールマガジン  第19号   2004年7月22日

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